正月の東京国立博物館で毎年恒例となっている展覧会がある。
その名は「博物館に初もうで」(2020年1月2日~1月26日)。超有名美術品の新春特別公開だったり、新年の干支にちなんだ文化財を一同に集めたり、和太鼓などの催し物をやったりと、賑やかで面白い展覧会だ。
さて、この「博物館に初もうで」という名前、すんなり受け入れる人もいれば、すこしだけ変に感じる人もいるのではないだろうか。日本美術を鑑賞するはずの博物館と、一応は宗教的イベントである初詣の組み合わせ。
宗教と美術というのは昔から曖昧な関係で、今でいう美術品の多くは元々誰かの祈りの対象であったろうし、初詣はそれが成立した明治時代より多分に物見遊山的な意味合いを含むものでもある。1年の無病息災を祈るはずの初詣でインフルエンザをもらってきても、神社にクレームをつける人は聞いたことがないし…。
ちなみに昔はもっと真面目だったようで、今から100年前、弱冠29歳の哲学者である和辻哲郎は『古寺巡礼』で、
われわれが巡礼しようとするのは「美術」 に対してであって、衆生救済の御仏ではないのである。
とはっきり宣言している。『古寺巡礼』は、今で言ったら文化系男子の旅行ブログ的な感じで、奈良や京都の仏教美術を巡礼しながらそのルーツである中国、インド、果てはギリシャにまでその想像力の翼を広げる紀行文。
当時のインテリ層は古臭い迷信だからと初詣する人も少なかったらしく、この時代の古寺巡礼にはむしろ「美術」に対しての敬虔さを感じる。とはいえ、和辻哲郎が目指した「美術」という捉え方が定着した現在だと、むしろ宗教美術の「宗教」と「美術」はそう簡単に切り離せるものではなく、宗教を伝統文化と捉えその文脈の中でこそ鑑賞すべきみたいな流れがあったりして…なんて話出すと本題にいけなくなりそうなので、そろそろ今回のお出かけの話にうつりたい。
『古寺巡礼』出版からほぼ100年後の令和2年正月。
30歳になった自分は、「宗教心には疎いんだけどせっかく初詣って言ってるし、愚直に宗教しにいくつもりになれば、普段と違った見方ができて面白いかも」という軽い気持ちで東京国立博物館に無病息災を祈りに行きたい。
美しさよりもありがたさを求めて。
三が日の午後の上野は博物館の外も中も賑やか。早速620円のチケットを買い中へ。
入って右手の東洋館前がなんだか騒がしい。賑やかな祭囃子の音色に乗り、躍動感あふれる獅子舞。俄然、正月気分が盛り上がってくる。
国立博物館に呼ばれるくらいだから、プロ意識がありサービスよく片っ端から観客を噛んでいってくれる。頭を噛むことで邪気を食べてくれるというけど、もしそれで人格がごっそりなくなってしまったらどうしよう、と思った。私達はよこしまな気持ちに支えられて生きている。
獅子舞は惜しまれつつも30分ほどで終わり、まずはめでたムードの本館へ。
東京国立博物館は、日本美術を展示する本館、日本の考古資料を展示する平成館、法隆寺由来の古代仏教美術を展示する法隆寺宝物館、アジアの美術を展示する東洋館の4つの建物で常設展示している。盛り沢山だ。
今回は、本館→平成館→東洋館→法隆寺宝物館の順で回る。
手を清める(トイレがてらに)。必ず冷たい神社の手水舎と違い、あったかいお湯が出てくるのが最高。
日本美術史に沿って展示する本館2階から見て回るのだが、はやくも美術品、つまりモノに願うのってけっこう難しい気がしてくる。
壺だ。ウチの土鍋が壊れないように願うのならなんとか、って感じだが土鍋ってそんなに壊れるものでもないし。
例えばこの3つのモノを見て無病息災を祈るとしたら、どれなら出来そうだろうか?
縄文土器はあまりに日用品然としているし、銅鐸は教科書に出てくるヤツにしか見えない。どちらも、モノすぎてあまりにも話が通じなそうだ。その点、人型の埴輪は強い。願ったら何らかのリアクションはくれそうな気がする。
開始5分、偶像崇拝の誕生である。
普段なら童顔・微笑に少し崩した姿勢…これは7世紀後半!とか思うのだが、今回は「仏像って祈りの対象としてよくできてるなあ」としみじみ思う。
少し微笑んだかのような、中庸な表情をしていて、なんでも聞いてくれそうな感じがする。ベテランのカウンセラーのようだ。特に仏教伝来初期のものは、人を選ばないとっつきやすさがあると思う。
では、ありがたそうな仏様が沢山いればいいかというと、就活の面接のようで緊張してしまう。これだけいると、一人は「今年を無病息災に送れるとして、あなたが1年で成し遂げたいことを1分以内に話してください」みたいに突っ込んできそうだ。
怖い。不動明王はもともと厳しい修行をするお坊さん(密教など)に信仰される仏像なので、その造形からして一見さんお断りの感がある。10年弟子入りして技を盗めと言われそう。
右手に持った剣は煩悩を打ち砕くためのものらしいが、そもそも自身の無病息災というのも私利私欲っぽさがあるのでどうしたものか。
と、いろいろと文句をつけて回って大変失礼な事をしている気持ちになるのだが、やはり美術館でみるのと本来の宗教的空間でみるのとでは見え方が全然違うのだ。
美術館では360度あからさまに見えるゆえに宗教的空間にある「見られる側」の意識がなくなり、こちらが「見る側」になれる。なんだか自分の方が立場が上な気がしてくる。よく有名人のSNSをサンドバッグにする人がいるが、あれも一方的な観客意識によるものだろう。
日本では神道はもとより仏教までありがたいものを隠してしまうけれど(秘仏という)、大切なものは目に見えない的な日本の神仏のあり方に対して、美術品はあまりに赤裸々だ。
細部まで観察できると技巧的な部分に視点がいくし、明治=近代という時代の作品には、360℃まじまじと見られることを意識して作られている。
さて、今度は能面の展示室だ。
室町時代の伝説の面打ちが作った能面が所狭しと並べられている。
悲運の女性の亡霊の役に使われる能面・痩女。
現代日本では平日終電間際の下り電車にいそうな顔。初詣のつもりで前に立ったが、むしろこの顔に対して無病息災を祈らずにはいられなかった。
初詣としての本館はこのあたりにして、そろそろ考古資料を展示する平成館にいくのだが、その他にも長谷川等伯の超有名な国宝を新春特別公開してたり、
正月にちなんだ美術品を展示していたり、展覧会としても面白いので単純にオススメだ。冒頭にも書いたが、1/26までやっている。
次に向かったのは平成館。考古資料とは要するに遺跡から発掘されたもので、土偶とか埴輪とか勾玉とかである。
日本で教育を受けた人ならもう見慣れたこの土偶。ドラえもんの大長編でもお馴染みである。
こうしてまじまじと見てみると、尋常ならざる熱のこもった造形だし、信仰心がないとこんなの作れないだろうと思う。そして、実際に無病息災を祈ろうとすると、にわかに異国の神様のような気がしてきて戸惑った。
見慣れているのと文化的連続性というのは別物なのだろう。
その点、弥生時代を過ぎて古墳時代に入ると急に隣人感がでてくる。本当に髪の毛なのか、という疑問はおいといて、銭湯で隣同士湯船につかり「今年もお互い頑張ろうや」と話したりできそうだ。
しかし、同じ古墳時代でも石で作られると急に他人に思えてくる。この人が銭湯につかっていたら、そそくさとシャワーだけで済ましてしまうかもしれない。
というか、この造形を気やすく人と認めてしまっていいのだろうか。5~6世紀の九州では、埴輪の代わりに石で作った石人や石馬を古墳の墳丘に並べるという文化があったようだ。古墳時代の多様性を表す素晴らしい遺物である。
平成館を出るともう午後3時過ぎ。ずいぶん歩いたのでお腹がすいてきた。敷地内にめずらしく屋台が並んでいる。
600円のきつねうどんを縁石に座って食べる。麺がちゃんとプリッとしてて美味しかった。
芝生に入る人も普段はほとんどいないけど、この日は公園の芝生みたいになっていてそれほど違和感がない。羊の石像も立派な文化財というか、朝鮮半島の陵墓を守る霊獣なのだが、つまらなそうにしている子供の顎おきになっていた。
三が日しか味わえない空気感だ。
次は東洋館である。
異国の神様というものはどこかエキゾチックに見えてしまうものだけど、中国の古代の仏像にはそれがない。有名な京都・広隆寺の半跏思惟像の“アルカイックスマイル”であったり、奈良の天平彫刻だったりの面影があるというか、親戚のおじさんみたいな感じである。自然と手を合わせられそうだ。
また、中国に限らず、あぐらをかいて手を前で組んだ三角形のシルエットに対する信頼感ってけっこう深いんだなあと思った。路傍のボロボロの石仏でも、シルエットだけで仏様だとわかる、あの感じだ。
暖かい国の神様ってなんだか陽気に見えて、正月のハレの感じに似合う。象に乗ってるし。
本州の人が沖縄にいくと妙にテンションがあがってしまうのと似てるかもしれない。
お取込み中の仏像。トイレに起きた子供が見なかったことにするやつだ。正月のお願いどころではない。
ただ、持物を手放さないのは宗教的な高揚の中にいるからだろうし、チベット仏教では多数の仏を生み出す絶大な力を持つ仏として信仰されているようだ。
おみくじはないけどアジアの占いコーナーがあったりして、家族や友人や恋人とくれば盛り上がれるかもしれない。
外はもう夕方の雰囲気になってきたが、東京国立博物館は金土が21時までやっているのでまだまだ見ることができる。
最後は法隆寺宝物館へ。
夜の自販機は神々しく見える。冷えてきたのであたたかいほうじ茶を買った。もし昔の人が見たらその光に神が現れたかと思うだろうし、現代においても冷たい空気の中ほうじ茶を買えるのは大変ありがたい。
日中の喧騒が嘘のように、羊も霊獣らしく静かに佇んでいた。
あの斑鳩の法隆寺から寄贈された、国宝・重要文化財だらけの仏教美術を展示する法隆寺宝物館。非常にカッコ良い建築で有名なのだけど、夜はまた違った表情をみせる。
内部は夜を宿したかのようにライトが抑えられていて、モダンなカッコ良さと厳かさのいいとこ取りというか、何度も来たことがあるのに雰囲気に感激してた。
暗がりを抜けた先にあるこの空間。これまでの展示室とは空気が違う。美術館によくある白い箱のような展示室ではなく、法隆寺の仄暗い金堂内部のような、宗教的空間をモチーフにデザインされている。
法隆寺四十八体仏と呼ばれる、仏教伝来してまもない頃の仏像群である。
日本書紀には、6世紀に百済聖明王から仏像を送られた欽明天皇が「仏相貌端厳」(仏の顔、キラキラし)と語ったという場面が描かれている。確かに、この仄暗い中で見る仏像は、キラキラと光っているように見えた。当時の国際情勢はあるにせよ、古代の日本人が異国の宗教である仏教に帰依したのがわかるような気がした。だって、隣人であるところの埴輪と全然違うし。
その他にも100年前に和辻哲郎が感動したような、エキゾチックな古代美術が所狭しとならんでいる。これを東京で見れることがすごいし、美術品として鑑賞できる現代ではなく、仏教を信仰しなければ触れられない古代だったら、自分も仏教徒になってもおかしくないなと思った。
そして、これが最後の気づきである。美術を通した擬似的なものではあるが、リアルな宗教的体験をすると、無病息災を祈るというような私利私欲はどこかへ飛んでいってしまうものだ。興奮して祈るというテーマを忘れてた。すみません。
そんなわけで、非常に充実した「博物館に初もうで」だったが、無病息災を祈るというテーマはいまいち成功しなかった。まあ特に初詣に行かなかった去年も無病息災で過ごせたので、帰ったら手洗いうがいをよくしようと思う。
P.S.
上野の甘味処、みはしの紅白お雑煮を食べると一人暮らしでも正月気分を味わえてより良いです。