深大寺周辺には古代がひしめいている。このあたりは旧石器時代から連綿と人が暮らしている場所だ。飛鳥時代には狛江郷と呼ばれ、朝鮮半島(主に高句麗)から多くの渡来人が移住した。国分寺崖線の斜面(御塔坂)にも吉見百穴的な横穴の墓が見つかっている。
田舎の史跡にありがちな官公庁跡ではない、生々しい古代。そんな古代を肌で感じつつ、深大寺の東側1kmほどを散歩してみた。
調布市三大式内社のひとつ、虎狛神社
調布市三大式内社とは自分が勝手に呼んでいるだけなのだが、多摩地域に8つしかない式内社のうち3つが調布市にあるとしたら、ドキドキしてこないだろうか。隣の府中市が国府だったことを考えるとおかしな話ではない。
一つは布多天神社。古代には(菅原道真ではなく)少彦名命を祀った神社で、これは確定だ。もう一つは深大寺の隣にある青渭神社。古より水神を祀った神社でこちらは論社(候補の一つ)。
そして大歳御祖神を祀った虎狛神社。こちらも論社である。青渭神社と虎狛神社はどちらも深大寺に関係深い神社である。面白いことにこの組み合わせは青梅市にも存在するが(そしてこちらの方が立派)、調布の方も古いことは間違いない。
17世紀に作られた深大寺縁起には、この地に伝わる伝承として、深大寺を開いた満功上人の祖父母を祀ったのが虎狛神社であると書かれている。これが本当なら、深大寺と同じ8世紀前半に作られた神社ということになる。どうも祖母が渡来系だったようで、名を虎という。そして、その子(満功上人の父)は福満という。布多天神の由緒に出てくる広福長者とともに、興福寺の阿修羅像を作った将軍万福を連想する。万福も渡来系だ。
高句麗は今の北朝鮮から中国東北部にあった大国で、668年に唐・新羅の連合軍に攻められ滅亡した。その遺民は日本にも多数亡命してきたと言われている。大陸から関東へ、長い長い旅であったろう。
もちろん深大寺縁起については半信半疑で聞くべき話なのだが、三代に渡って人の名を知る機会ってそんなにないため、古代が急に生きた感触がしてくる。
(『深大寺及附近の歴史』では、飛鳥・奈良よりもずっと昔から存在する神社だと推測している)
ちなみに、千と千尋のハクの元の名に神社名が似ているため一部のジブリファンが色めき立っているらしい。ジブリファンは隙あらば現実とアニメ世界をつなげようとするのだ。
深大寺の由緒を簡単に紹介すると、「深大寺を開いた満功上人の父・福満が、郷長右近の娘と恋仲となったが、右近夫妻は娘を湖水中の島にかくまってしまう。福満は水神・深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗って島に渡ることが出来た。娘の父母もこの奇跡を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であった」そうだ。水があるから人が住む。深大寺も水浸しの寺だけど、このあたりの古いものは大抵国分寺崖線からの豊富な湧き水がキーワードになっている。
すぐそばを流れる野川。湧水を集めるため透明度が高い。
境内の外れのあった庚申塔。左側の裏をのぞくと昭和51年と彫られている。庚申塔は近代に廃れた信仰なので新しい方が珍しい。ここ佐須町ではわりと最近まで信仰が続いていたのかもしれない。右は宝暦7年(1757年)。庚申信仰はパリピ向けだと思う。当時も宴会が苦手な人はいただろう。
近くのアジアンな家具店(吉祥寺にあるお店のファクトリーストア)の横を抜けると、もう一つ神社がある。
その名も「稲荷神社」。シンプルでよい名前。昔々、村の人にとってお稲荷さんといえばここで間違いなかったのだろう。他の土地との対比がなければ、稲荷は稲荷のままで十分なのだ。
このあたりはいかにも地主っぽい大きな家が多い。
町の連絡掲示板には謎の模様があり、写真を見てから文字だと気づいた。抽象的な形の理由は、便所のバカアホとやってることが変わらないからだろうか。そのデザイン性に恥じらいを感じる。
虎狛神社の裏は少し蛇行しながら窪んでいる。
二体の地蔵が祀られていた。
すこし東へ歩くと、倉庫兼直販所といった雰囲気のどら焼き屋がある。調べてみると北海道に数店舗、本州にはここにしかない。
北海道からの焼きたて直送が何時間かかるのかわからないが、出来立てと言われても信じられるふわふわ。コンビニ感覚で買い食いするには美味しすぎてびっくりした。
国分寺崖線と調布市野草園へ
ハケ(国分寺崖線)の方へ向かっていく。10m〜20m程度の高低差だが、2mもない人間の目線では大きな変化だ。
上った先は中央フリーウェイ。
このあたりに高速バスのバス停があり、都心を経由することなく名古屋や長野に行けるらしい。コロナが始まる前に気付けばよかった。
何かありそうな方へ、橋を渡り切らずに引き返し右へ曲がる。道の先が消えている。
どこへ連れていかれるんだろう…とドキドキしながら下った先はひらけていて、ここが調布市野草園だった。野川公園あたりと比べると静かな雰囲気。奥へ進んでいく。
奥の方は湿度が高く、ボウフラが生を謳歌していた。中央高速は緑を貫く都市文明といった感じだ。
ところどころにまだ一度も踏まれていないやわらかい土がある。足の裏の有機的な感触にちょっとした興奮と罪悪感を覚える。
高架の向こうも公園が続いている。
木々に囲まれて空がぽっかりと開いていた。
広場の奥には湧き水が。
水量は多く、水道感覚で触れられる透明度。
フェンスの向こうは都立農業高校の付属農場。ホタルやカタクリの保護、湧き水を利用してワサビやニジマスの養殖などを行っているらしい。毎週木曜日に公開。
坂の上の住宅街への階段がいくつかある。初見ではどこへつながっているのか予想がつかない。
一番先の見えない階段を上っていみよう。
さっきの中央高速の反対側にでた。
高速道路を背にして「池ノ上神社」がある。
創建は不明。祭神は池ノ上大神。そうそう、こういうのでいいんだよ…と言いたくなる神社。旧字名・絵堂の鎮守なのだが、いつからあるのかも、神様は何者なのかもわからない。昔池があったことだけはわかる。田舎にぽつんと立っている神社が、日本書紀に出てくる由緒正しき神様を祀っている方が不自然なのだ。
もう一度来た道を下っていく。野草園の隣も小さな山になっているので、そちらも行ってみたい。
かに山とふもとの田園風景
この上は深大寺自然広場になっている。公共の広場にしてはわかりにくい入り口から、小山を上っていく。通称かに山。由来はわからないけど、このあたりで沢蟹を見たことはある。
ずんずん登っていくと、小山の上は小さなキャンプ場になっていた。
木の根を掴んでおっかなびっくり下っていたら、おばあさんがこの坂をひょいひょいと上っていった。
お地蔵さんが祀られているということは、昔はここが村はずれで三鷹の方への道だったのかもしれない。地蔵が置かれるのは村の境界で、人のいない怖い場所だ。
ふもとには水田が広がっている。この一角だけは本当に長閑な田舎にきた気がするが…
案内板にはむしろ東京を感じる。
もう一つの古代寺院・虎柏山祇園寺
南へ5分ほど歩いたところに、深大寺と同じ満功上人が両親弔うために建てたというお寺がある。
虎柏山祇園寺だ。名前でわかるとおり、最初に紹介した虎狛神社の旧別当。別当寺とは神仏習合時代に神社を管理していたお寺のこと。延喜式神名帳に載っているのは虎柏神社で虎狛神社とは字が違うのだが、別当寺だった祇園寺の山号が虎柏。古代の漢字はそもそも当て字なのでゆるいのかもしれない。
天平年間創建で、平安時代に法相宗から天台宗に改宗したという深大寺と同じ由緒を持つ。鎌倉時代の鉄仏僧形八幡菩薩像が伝わっている以外には、古い資料は残っていないらしい。ただ、大きな木に囲まれた境内の雰囲気は静謐で、なんとなく古代寺院っぽさがあるように思う。
夕方に来ると白砂の境内に1人、木々がサワサワと鳴っている。
野川へ戻る。野川はもう少し下流で多摩川へと身を委ねる。